城陽高校9条の会ニュースより
城陽高校9条の会は、10月19日に実施予定の「伏見(陸軍第十六師団跡)の戦跡をめぐる」にさきがけ、9条の会ニュースで「伏見の戦争遺跡」についての案内を連載しています。同じく、伏見戦跡を歩く企画をしている他の職場9条の会もあるので紹介します。
陸軍第十六師団(伏見・深草)とは?
戦前の陸軍では、歩兵や騎兵、砲兵、輜重兵(弾薬・食糧などの補給・輸送)、工兵などの部隊や、練兵場、兵器庫、射撃場などで構成される大きな一つの単位を「師団」と呼びました。一つの師団で戦争ができるというくらいの規模です。
当初、京都の陸軍は大阪の第四師団に所属していましたが、日露戦争(1904〜05)の兵力不足を補うため、京都に臨時の師団が置かれ(全国で四個師団)、日露戦後に常設の師団となって伏見の深草に置かれたのが第十六師団です。
師団設置のための土地買収には農民らの反対も大きかったようですが、京都府当局などによる強力な指導を通じて国家の政策には反対しにくくなり、約30万坪(100ha)という広大な土地買収が進み、以後伏見深草一帯は第十六師団一色の町=「軍部伏見」の様相を強めていきました。
第十六師団司令部跡
師団司令部は現在の聖母学院(短大や小・中・高校)本館となっている建物(戦後に聖母学院が国から買い取った)で、京都の陸軍全体を統率する中心本部でした。明治末期に建設された重厚な赤煉瓦建築です。建築の歴史の上でも、また戦争があったことを今に伝える代表的な戦争遺跡という点からも、保存が望まれています。
一番近い京阪電鉄の駅は、当時は「師団前」といいましたが、太平洋戦争中に今の「藤森」と改名されました。それは、駅名で近くに師団司令部があるという軍事機密が分かってしまうことが理由でした。
この師団の遺跡でよく知られているのは、1937(昭和12)年12月、中国での日中戦争の最中、南京城を攻撃し占領を続け「南京大虐殺」を実行した部隊の一つだったことです。
司令部の一角には師団長官舎がありました(満州事変の関東軍責任者であった石原莞爾も居住)。瀟洒な和洋折衷の建物で戦争遺跡としても貴重なので、聖母学院に保存を申請していましたが、残念ながら10年程前に解体されました。
(磯崎三郎)
