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宇治・黄檗の戦争遺跡〜城陽高校九条の会フィールドワークより〜

■木幡火薬製造所があった
一九〇四(明治三七)年二月に日露戦争が始まり、火薬増産の必要が出てくると、木幡地域西方に宇治火薬製造所木幡分工場が建設されることになり(一九〇六年に設立)、奈良線木幡駅西方一帯に広がりました(当時の地名は京都府紀伊郡伏見町向島)。

黄檗本工場と木幡分工場は、今の隠元橋東の辺で「人車鉄道」(トロッコ軌道)でつながっていました。戦争拡大と共に宇治火薬庫製造所も拡大を続け、アジア太平洋戦争終結時には黄檗本工場二一万三五七二坪、木幡分工場一二万九九〇坪、試射場・官舎を合わせて三六万二四五四坪、職員四六八二人でした。 現在の公団桃山南団地(伏見区桃山南大島町)は、木幡分工場があった場所です。現在も至る所に大きな松が残っています。これは火薬製造工場が爆発した時の爆風よけ、防護壁代わりの松といわれています。

 

■火薬専用鉄道用の築堤がある
ここで生産された火薬は、西日本の軍需工場最大の拠点だった大阪砲兵工廠(大阪城跡)やアジア太平洋戦争頃に新たに増設された祝園弾薬庫(現在の精華町。今も自衛隊の地下弾薬庫として使用)や枚方製造所・香里火薬庫などに運ばれ、火薬を詰めて砲弾として完成されていました。輸送手段としては、宇治川・淀川の水運と奈良線・片町線などの鉄道を使用したと考えられます。 一九四〇(昭和一五)年頃、日中戦争拡大と対米英戦争準備に伴い木幡分工場の火薬をより大量に効率よく輸送するため、奈良線木幡駅から分工場北まで火薬輸送専用の鉄道が建設されました。付近住民から用地を買収し、約五bの高さの鉄道用築堤が築かれました(今も一部残存しています)。 現在、JR奈良線木幡駅北側は、火薬輸送鉄道の引き込み線跡地が「木幡緑道」として整備されています。緑道入口には、戦前の火薬製造所木幡分工場の存在を記した説明の銘板(宇治市による)があります。 火薬製造所・火薬貯蔵庫は陸軍の用地でした。陸軍用地と民有地の境には、立入禁止の意味も含めて陸軍の石柱が立てられていました(「陸軍用地」「陸軍省所轄地」などと記載)。宇治火薬製造所跡では宇治少年院内に、黄檗の宇治火薬製造所跡では京大研究所南側に陸軍石柱が残っています。また、木幡の火薬専用鉄道築堤の両側には多くの陸軍石柱が残っており(木幡緑道脇など)、注意して歩くと数多くの石柱を見つけることができます。中には、一般民家の塀に石柱が埋もれている例もあります。