京都府高ニュース

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『京都府高』特集:憲法・教育基本法へのラブレター(その2)

「八鹿高校事件は青春の思い出と共に激しい怒りと誓いを呼び起こす」

昨年11月22日、京丹後市で「九条の会」主催の憲法・教育基本法守る丹後平和のつどい≠ェありました。翌日が学校の学習発表会なので、参加するかずいぶん迷ったのですが、日本の進路が大きく変わるかもしれない大変な時代に、自分にもできることがあればという気持ちになり、仕事の都合をつけて参加。私は、音楽九条の会≠フメンバーとして、構成詩に出演、歌や憲法前文や教育基本法の朗読などをしました。参加者の心にひびく企画だったと思います。

この後、中田進氏の教育基本法の講演がありました。中田先生の話の中で、印象に残ったのは、憲法と教育基本法の制定により民主教育が進められたこと。しかし戦後も生きのびた財閥やアメリカによって日本の政治があやつられ、民主教育もなしくずしにされてきたこと。受験競争教育の中で、歴史認識(とりわけ近代史)も十分に学習できていない中・高生が育っていることの危険性と、再び戦争をする国に向かおうとしている中でそれがますます加速していること。...ちょうど、全国的に高校の世界史の未履修問題がクローズアップされていた時で、自分の高校時代を思い出していました。

この11月22日は私にとっては生涯忘れることのできない日であり、昨日のことのように鮮やかに覚えています。あの日から32年--あの日に凝縮された真剣な思いが、「差別とは何なのか」。それを学びたい気持ちで障害児の教育を学ぶ進路を選び、「権利」ということを知った学生時代。その理想を求めて、あこがれの与謝の海養護学校に転勤。

私の通っていた高校は、ホームルームづくりがとても重視されていた学校で、一泊二日の研修会では、たてわりの班にわかれ、勉強や恋愛のことを語り合いました。

あの日、同和教育のあり方をめぐり、当時その地方で利権集団と化した部落解放同盟が学校教育すべてを、自分たちの思いのままに牛耳ろうとして、「解放教育」を実践していない私たちの高校に土足で踏み込んで来たのです。教育委員会や校長・教頭までが手先のようになって、教育熱心だった先生たちを「差別教師」と決めつけ、話し合うことは無視されて、大勢で暴力行為が行われました。なんだか、「あれは悪い国だ」と決めつけ、戦争をしかけ、自分たちの思いのままの「民主主義」の国を作るあの国のように...。あれはまさに教職員組合つぶしでもあったと思います。

私たちは生徒の立場で、何日も前から真剣に考え、語り合い、同じ生徒仲間で「解放教育」を信じる者たちと話し合ってきたのに。私たちは、各地から動員され、学校に入ってきた人たちのものすごい数に驚き、腹がたちました。たくさんのよその人がきて、「差別教師を糾弾」って何?「暴力反対・先生かえせ」とみんなで泣きながら叫んで警察まで歩いたこと、八木川の河原に全校生徒が集まって、同盟の指揮者とのやりとり。雪のちらつく日、緊張でトイレも行かず、弁当も食べず、朝から暗くなるまで立ちつくしていたあの日のこと。教育基本法の第10条が変えられたら、こんな事がまた起きるかもしれない。行政が正しいと決めたら、どんなに暴力や異常な事態が起きていても、警察も動いてくれなかった。そのことのおかしさと、罪が認められるには22年もの裁判闘争が必要だったのです!

中田先生の話が終わり、家路へと車を走らせながら、あの頃の自分に恥じない生き方を自分はしているのかと問い、答えはYesとはいえない。そう思うとなぜか涙があふれてとまらなくなりました。自分にできることは何か、小さなことでもやらなければと、17歳の純粋な自分や仲間達を思い出して誓った夜でした。〔与謝の海養護学校 石野洋子〕